超越論的な主観性の明証性の最深部とは、真理性を支える疑うことが不可能な基礎であるとともに、おそらくはかっこに入れることが不可能な残余でもある。フッサールが「原自我」と呼んだこの層については、田口茂が『フッサールにおける“原自我”の問題―自己の自明な“近さ”への問い』(法政大学出版局)においてそのめまいをもたらす性格を描き出している。
さて行為論的な現象学的還元においても、還元しきれない残余が残る。それは「生きている」という事実性である(初期のハイデガーにおいても事情は同様に見えていたように思える)。明確には倫理という方向性に進まなかったハイデガーとの若干のずれが出る箇所なのだが、医療・福祉現場を研究対象とする私にとって、この還元不可能な残余としての「生命」は、現象学的な倫理の根拠を示している(この点はフッサール自身の倫理学に対する私の距離でもあるかもしれない)。この点については近刊の『在宅無限大 訪問看護師がみた生と死』(医学書院)の末尾で論じている。
もちろんここでの生命は自然科学的な生命概念ではないし、脳死判定で問題になるような医学的ないし法学的な生命概念でもない。研究において登場する当事者たちにとって生きているということがどのように感じられるのか、という「生きられた生」(という循環)から見た生命である。ただしこのような生はあくまで、当事者によって多様な仕方で具体的に生きられた生とその感覚であって、大文字の生命というようなものではない。
このような生命から出発して創造性の問題や、当事者の自発性・自由といった倫理的問題が派生するが、今は省略する。
ここで考慮すべき問題は2つある。一つは「現象学的な生」はたしかに還元し得ない残余だとしても、認識論的な原自我の場合と同じように明証性として機能するのかどうか、という問いである。もう一つは、この生命がそもそも間主観的あるいは間身体的なものだとしたらそもそも方法論的な独我論という設定すら不可能になるのではないか、という問いである。これらの点については今後検討する。












