現象学 便所の落書き
2018-12-29T21:12:49+09:00
ojamo
journal pour rien
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今年読んだ本から
http://kusaiinu.exblog.jp/29923142/
2018-12-29T21:12:00+09:00
2018-12-29T21:12:49+09:00
2018-12-29T21:12:49+09:00
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西成区にきがつくとほぼ毎週通っていることから、差別を生き抜いてきた人たちの歴史を勉強したくなってきた。加えて、西成では支援者の皆さんからはいろいろなことを学んでいるが、もともと研究上のテーマとしていることとは別に、「歴史」ということをリアルに感じることが初めてできている。いままで歴史学や歴史哲学が語る「歴史」を自分の生活とリンクさせることができなかったのだ。以下は読んだ順番にあげる。上原 善広(2009/2012)、『日本の路地を旅する』 (文春文庫)
全国に残存する(そしてその多くが消えつつある)被差別部落を丁寧に訪れ、土地の人たちの聞き取りをし、酒場でいっしょに飲み食いをして風土を記録していく。これは相当に面白い。被差別部落だった場所は実はさまざまな歴史的な経緯と現れをもっており、それぞれのひだをもつ。
「路地」という言葉遣いは中上健次に由来する。中上も今年は熱心に読んだ。石牟礼道子(1969/2014)、『苦海浄土 わが水俣病』 (講談社文庫)
古典中の古典で今まで読んだことがなかったのが恥ずかしいが訃報を機に読んでみた。大阪に住む今だから本書の価値を受け止めることができるのも事実。若い頃にはわからなかったと思う。
土地の言葉で語られる漁民の実感から裁判記録まで、そしてなによりも水俣病をひきうけた人たちの重たい言葉、その他さまざまな言葉からなりたつ重層的な作品であり、こういう作品を読むと(いまのところ)現象学では描けない生のありようもまた際立つ。森崎 和江(1973/1996)、『奈落の神々 炭坑労働精神史』 (平凡社ライブラリー)
炭鉱というものがまったく固有の文化をうみだしていたということをはじめて知った。人権がまったく守られていない劣悪な環境においてそれゆえに固有のエートスが成立している様子を森崎は丁寧な聞き取りで記述していく。それとともに中世以来の文書を読みといてどのような重層性のなかでこの文化が成り立ったのかを描き出す。炭鉱の文化がもう消え去る瀬戸際にあるという自覚をもって書かれた書物でもある。
結局、筑豊の炭鉱、足尾銅山から原爆・沖縄戦、水俣から福島まで権力と技術に一部の人が蹂躙される形で国が維持されるという構造は、日本が統一国家を形成して以来なんの変化もない。終戦直後に今の形をとるようになった西成もこの文脈のなかに位置づけられるわけで、MYTREEの悠子さんやこどもの里の荘保さんがいつも言っていることがようやく実感できた。
石牟礼と森崎となると「サークル村」が気になるがこれは来年の楽しみにしよう。他には瀬川拓郎の『縄文の思想』と『アイヌと縄文』が面白かった。貨幣経済と権力構造の成立がリンクしているというのはクラストルからしても首肯できるが、貨幣経済社会と狩猟民・漁民の接点でフラットな交流の場が生成するという指摘が面白い。僕自身は当事者研究などでうまれつつあるあたらしい文化の動向と連続させて考えている。浦河がアイヌの住む土地だったことは偶然ではないのかもしれない。
洋書ではFélix Guattari, Micropolitique [Micropolitica] (1996)か。
絵画作品では福田美蘭のグリーンジャイアント。ポリリズムを『摘便とお花見』以来、自分の本のなかで強調しているだが、これはもともとの自分の好みを反映している。石牟礼も森崎もガタリも福田もそう。
しかし音楽はすっかりあきらめている。しいていうとワインベルクのチェロ曲が今年の発見で、ときどき聴いた。
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『在宅無限大』は一つの節目だった。10年ちかく行ってきた看護の研究が(来年刊行予定の共著と合わせて)一段落することになるからだ。
この数年間訪れて聞き取りを続けている西成を中心とした子ども支援については、どのような方法で描いたらよいのかまだ見当がついていない。実は看護の実践とソーシャルワークの実践では、(教科書的な違いではなく、その超越論的な構造が)大きく異なる。なので看護の研究とはかなり変えないといけないのはまちがいないのだが、それが現象学にとどまるのかそれとも現象学の外に出ないといけないのかもわからない。「現象学の外」を意識しているのは、コミュニティの自発的な生成ということが主題となるときに、内在的な視点を取る現象学によってどのように描くことができるのかどうかがよくわからないからだ。とはいえ、僕は社会学者ではないのでそれともまた違うアプローチを取ることにはなるのだろう。]]>
『在宅無限大 訪問看護師がみた生と死』(医学書院・ケアをひらく)
http://kusaiinu.exblog.jp/29914876/
2018-12-24T21:19:00+09:00
2018-12-25T12:59:52+09:00
2018-12-24T21:19:51+09:00
ojamo
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「死」というものが訪問看護師によって再発明されつつあるというということ、在宅医療においては死が親しい人との共同の経験であり、かつ(心臓が止まる瞬間ではなく)変化に満ちたプロセスであること、そして在宅医療は(死が近づくがゆえに逆説的に)生きることそのものを浮き上がらせる場所であり、それゆえに看護がもともと持っていた姿を際立たせる場であること(病院の看護でも在宅とまったく同じ価値がめざされていますが)、これらのことが本の(表面ではなく)背景にある通奏低音になります。
ときに不条理な運命が患者や家族に覆い被さるでしょう。このような運命を引き受けるために不可欠な存在としての看護師の姿が描けていればよいなと思います。いくつかの場面で「連続性の媒体」そして「変化の媒体」という言葉でそのような看護師の役割を描きました。
とはいえ、素晴らしい看護師さんたち一人一人の実践と語りのディテールが大事なので、内容をまとめてしまうとほとんど意味をなさなくなります。それぞれの看護師さんのなにげない言葉遣いに看護の意味が隠れていることに面白さがあります。7人の看護師のみなさんはそれぞれのユニークな実践をされており、その多様さとそこからそれでも浮かび上がる普遍のコントラストが見てとれると思います。『仙人と妄想デートする』のときにはまだ見えていなかった「医療において大事なもの」をようやく理解できたのでは、というのは反省も込めて記したいと思います。 一見するとストーリーが自然に流れるように見えて、背景では構成を作り出すために細かい編集作業を入れているので、かなり本気でドキュメンタリーフィルムを念頭に置いています(重江さんにおこられそうですが)。そのいみで、本を作る作業は論文を書く作業とはまったく異なります。
『摘便とお花見』のあとがきにポリフォニーとポリリズムという音楽の比喩で説明しましたが、看護実践そのものについてはこの比喩でいまでも考えています。ポリリズムを描き出すための作り方がフィルムに近いのかなと思います。
あるいは哲学から見たときには、事実から出発した「行為の現象学」の足場となることができたらと願っています(本文には哲学者が登場しないので、哲学の本には見えないと思いますし、わざとそうしたのですが、注をみるとどんなしかたで哲学史を引き受けているかわかるとおもいます。一番はハイデガーに対するアンチテーゼですが、スピノザ、ラカン、レヴィナスは少なくとも念頭に置いてます。本には名前を出しませんでしたがジェイムズ、マルディネとウリも)。
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16.超越論的な行為の地平
http://kusaiinu.exblog.jp/29870245/
2018-11-27T10:31:00+09:00
2018-11-27T10:31:17+09:00
2018-11-27T10:31:17+09:00
ojamo
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問題は第1段階である。「明証にただ身を任せる」とは何をすることなのか?フッサールは自然科学者が事象に埋没しながらトライアンドエラーを重ねて研究を進めていく身振りと重ねている。もしかするとフッサールの草稿にときどき見られるような、思考実験のようなとりとめもない記述、迷路にさまよい込むような記述がこの「ただ身を任せる」作業なのかもしれない。フッサールが「ジグザグ」と呼んだ現象学の道行きのことだろうか。フッサールのゆらぎを、行為論に置き換えたときにこれは何を意味することになるであろうか。そもそも行為の世界は「調和的」ではないことは#15で確認した。とすると穴だらけで矛盾だらけのさまざまな文脈の錯綜に身を任せることになる。そして反省以前の錯綜した行為の網の目の生成に立ち会うということになる(しかも経験的にではなく超越論的な水準において)。現実的には行為のその瞬間にオンタイムで立ち会うことは不可能である(フッサール現象学においてもオンタイムな分析は捨てられている。あくまで事象の事後的な再生を分析している。これが「反省」の時間である)。行為の可能性の全体を網羅することはできないし、超越論的に立ち会うということの困難もまだ解決されていない(次節で考える)。私たちがデータとして用いるインタビューは、オンタイムな分析の二次的な代替物ではないだろうか。つまり錯綜したナラティブは、錯綜した経験と実践の拡がりを転写した織物(テキスト)ではないか。私たちが研究のまず初めにする作業である何十回と逐語録を読む作業は、もしかすると「明証にただ身を任せ」る作業なのではないだろうか。そこには使うことができずに消されていく要素もたくさんある。とはいえ私たちが構造化されないインタビューという方法を採用するのは、まさにこの「ただ身を任せる」試みである。もちろんインタビューで語られる内容にはさまざまな限界がある。時間的な制限があるし、そのときどきの偶然に左右されながら語られる内容が決まる。しかしそのことは無限に多様な経験と実践が拡がっているという無限地平の裏返しにほかならない。個別の実践はしかしその個別性において無限の実践の地平の拡がりを持つということだ。わたしたちが実践のスタイル、プラットフォームとして描き出すのはその無限の拡がりをはらんだ個別の構造なのだ。]]>
15.認識における経験の調和と行為論における経験のやぶれ
http://kusaiinu.exblog.jp/29864404/
2018-11-23T22:59:00+09:00
2018-11-23T22:59:56+09:00
2018-11-23T22:59:56+09:00
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しかし行為論的にはこの点が大きく変わる。というのはむしろ経験にはさまざまな穴が開く。支援現場においてニーズと呼ばれるものは、何らかの苦痛や困難がある場所である。当事者が抱える困難は、状況のなかで調和的な経験の連続性を保つことができないそういう場面である。むしろ苦痛や困難、外傷をてことして実践は始まる。これは病理的な異常ではなく、私たちの誰もが遭遇する日常である。何か経験の調和が破綻する場所から私たちの行為は立ち上がる。その意味でも認識論と行為論は大きく異なる性格を持つ。経験の織物の破れ、あるいは経験を織りなすさまざまな文脈のほつれ、このような破れやほつれこそが、行為論における超越論的世界の拡がり方だ。]]>
14.リズムと歴史(リズム論3)
http://kusaiinu.exblog.jp/29864393/
2018-11-23T22:52:00+09:00
2018-11-23T22:52:56+09:00
2018-11-23T22:52:56+09:00
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この文が暗示することは習慣性と明証性が浸透しあっているということである。行為論の文脈に置き換えると、当事者や実践者が背景に持っているさまざまな歴史性(家族関係だけでなく、さらには過去の差別の歴史や、移民、戦争といったものまでも含みうる)にもリズムが浸透しているということである。認識においては内的時間意識が基礎にあって歴史の沈殿に浸透するであろうが、行為論においては一方向の基礎づけではなく、相互に基礎づけることになるだろう。リズムに歴史性が浸透し、歴史性にリズムが浸透するという形になる。今ここでの行為と動作のリズムに歴史性に由来する葛藤が浸透している様子は、たとえば(虐待に追い込まれた母親のためのグループプログラムである)MY TREEペアレンツ・プログラムで観察できた。参加者が持つ呼吸のリズムや体のぎこちなさは、家族関係の困難(子どもやパートナーとのリズムの不整合)と、表現ができないという苦しさと対応していた。このような体のリズムのぎくしゃく、そして対人関係のなかでのリズムのぎくしゃくは、過去が言語化され整理されていくとともに変化していくのだった。]]>
13.生の触発とリズム(リズム論2)
http://kusaiinu.exblog.jp/29864386/
2018-11-23T22:48:00+09:00
2018-11-23T22:52:30+09:00
2018-11-23T22:48:40+09:00
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他者にとってあるいは研究者にとって(看護師や患者の)生からの触発はポリリズムという仕方で現象する。フッサールは「経験の構造(たとえば、体験の流れの内在的な時間形式といった)が、現実的及び可能的な事故経験において個々に与えられるもののすべてを貫いて広がっている」(『デカルト的省察』第12節、邦訳61頁)と語った。このような体験すべてを貫く「内在的な時間形式」がリズムに当たるわけだが、一人の他者の生は、それじしん他者がもつ対人関係の束を含み込み、それゆえにさまざまなリズムの調和や齟齬として現象する。なのでフッサールにおいて明証だった現象学者自身の生の隠れた作動を看取することは、現象学的な質的研究においては他者が隠れもつ多様なリズムから研究者が触発されることへと変化する(そしてこのポリリズムによる触発は、日常の背後に隠れて入るものの私たちがつねにお互いに知らず知らずのうちに感じているものであり、そして研究を読んだ読者はリズムが明示されるがゆえに明瞭に感じるものである)。]]>
12.時間からポリリズムへ(リズム論1)
http://kusaiinu.exblog.jp/29858645/
2018-11-20T14:10:00+09:00
2018-11-23T22:53:25+09:00
2018-11-20T14:10:35+09:00
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意識の探求ではなく、複数の人たちのインタラクションである行為論へと舞台を移したとき、基盤としての時間は大きく姿を変える。つまりリズム論となる。実践は常に多様なリズムを同時に含みこむ。このリズムは(睡眠や血糖値の変化といった)生理現象のリズムであったり、動作のリズムであったり、二人の人のあいだのタイミングであったり、物的なものから心的なものから間主観的なものまで多様な水準を含みこむ。しかも多様かつ異質な層がリズムの調和と齟齬においては一つの土俵で出会うことになるのだ。認識論においては把持と予持からなる単線的な内的時間意識だったものが、行為論においては多層のリズムのそのつど異なる構造を持った重なり合いと変化からなるポリリズムへと時間の軸が変化する。そしてこのようなポリリズムが常に行為論における場(かつてフッサールにおいて超越論的主観性だったもの)を貫くのだ。]]>
11.明証から触発へ
http://kusaiinu.exblog.jp/29852696/
2018-11-16T23:03:00+09:00
2018-11-17T06:19:37+09:00
2018-11-16T23:03:12+09:00
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行為を研究するときには、真理の起源の位置が明証性から触発の可能性へと移ることになる。この点については「経験の流れを内側から捉える知 : 現象学と他の方法はいかにして補い合うのか」(『看護研究』50/4, 2017)で議論した。フッサールの明証性は現象学する自我にとって自分自身へと現象が現れることの疑いえなさであった。しかし行為論と他者を分析する「現象学的な質的研究」における「触発」においては、自己から自己への明証性は成立しなくなる。むしろ対象となる看護師や患者の経験・実践(の構造)が(1)(還元の手前で)家族や同僚など周囲の人を触発し、(2)(還元された領域において)分析する現象学者を触発し、(3)最後に論文を読む読者を触発する、というしかたで触発は多重的に作用する。明証性の問いは、実は社会科学のなかでの現象学的な質的研究の妥当性という問いと関係している。つまり統計を用いた学問の世界のエヴィデンス信仰に対してどのように、真理の位置を示すかという問いである。現象学的な質的県キュ雨においては、同意するにせよ、反発するにせよ読者にたいしておよぼす触発が、真理の指標となる。真理は触発の強度の問題となるのだ。フッサール研究者に対しての申し開きと、他領域の社会科学者・自然科学者に対する申し開きという二方面作戦がリンクしているのだ。]]>
10.明証性と生
http://kusaiinu.exblog.jp/29852684/
2018-11-16T22:56:00+09:00
2018-11-16T22:56:53+09:00
2018-11-16T22:56:53+09:00
ojamo
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さて、行為論に視点を変更したときに、そして他者による現象学へと拡張したときに、明証性はどのような姿を取るのか、この問いは難問を投げかけるように思える。そもそも「明証性」という(認識論の文脈で使われる)概念がそのまま維持されるのかどうかも検討の必要があるのかもしれない。論証にはなっていないが、私が考えている論理は以下のようなものである。語り手の生に属する何かが(行為論的な現象学的還元のはてで)触発可能性として残余する。現象学的に還元し得ない残余としての「生」が、私たち(現象学的な質的研究の研究者)にとっての(あくまでかっこつきの)「明証性」となる予感がある。「生きているように感じる」ということを今の時点では(現象学的な質的研究における)明証性の最低次の水準として考えている。触発可能性としてのリアリティはそこを基盤としているのではないだろうか。この点はまだ答えではなく宙吊りのままの問いかけである。]]>
阪大こども科研第1回シンポジウム 暫定プログラム
http://kusaiinu.exblog.jp/29846022/
2018-11-15T21:18:00+09:00
2018-11-15T21:20:22+09:00
2018-11-12T23:51:32+09:00
ojamo
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2月のシンポジウムの暫定プログラムです。2019年2月24日(日)大阪市東成区民センター小ホール10:00-11:30:『さとにきたらええやん』上映会13:00-14:20講演:荘保共子さん(こどもの里)14:40-17:00シンポジウム:「子ども支援の現在」:久保樹里(大阪歯科大)、永野咲(予定)(昭和女子大)、村上靖彦(大阪大学)(コメント:荘保共子さん)本科研プロジェクトでは、社会的養護や地域での子育て支援を専門とする研究者とさまざまな現場で活躍する実践者のみなさんの交流をはかるとともに、現場の声を社会のなかで共有できる形にしていくことをめざします。第一回はこどもの里の荘保共子さんをお招きするとともに午前中にこどもの里を描いた映画『さとにきたらええやん』(重江良樹監督)を上映します。申込み:handai.kodomo@gmail.comにお名前とご所属をお願いします(定員170名)
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9.残余としての生
http://kusaiinu.exblog.jp/29850913/
2018-11-15T21:16:00+09:00
2018-11-15T21:16:30+09:00
2018-11-15T21:16:30+09:00
ojamo
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さて行為論的な現象学的還元においても、還元しきれない残余が残る。それは「生きている」という事実性である(初期のハイデガーにおいても事情は同様に見えていたように思える)。明確には倫理という方向性に進まなかったハイデガーとの若干のずれが出る箇所なのだが、医療・福祉現場を研究対象とする私にとって、この還元不可能な残余としての「生命」は、現象学的な倫理の根拠を示している(この点はフッサール自身の倫理学に対する私の距離でもあるかもしれない)。この点については近刊の『在宅無限大 訪問看護師がみた生と死』(医学書院)の末尾で論じている。もちろんここでの生命は自然科学的な生命概念ではないし、脳死判定で問題になるような医学的ないし法学的な生命概念でもない。研究において登場する当事者たちにとって生きているということがどのように感じられるのか、という「生きられた生」(という循環)から見た生命である。ただしこのような生はあくまで、当事者によって多様な仕方で具体的に生きられた生とその感覚であって、大文字の生命というようなものではない。このような生命から出発して創造性の問題や、当事者の自発性・自由といった倫理的問題が派生するが、今は省略する。ここで考慮すべき問題は2つある。一つは「現象学的な生」はたしかに還元し得ない残余だとしても、認識論的な原自我の場合と同じように明証性として機能するのかどうか、という問いである。もう一つは、この生命がそもそも間主観的あるいは間身体的なものだとしたらそもそも方法論的な独我論という設定すら不可能になるのではないか、という問いである。これらの点については今後検討する。]]>
8.形相的還元と実践のスタイル:個別者からスタイルを抽出する技法として
http://kusaiinu.exblog.jp/29846032/
2018-11-13T00:01:00+09:00
2018-11-13T00:01:07+09:00
2018-11-13T00:01:07+09:00
ojamo
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現象学的な質的研究におけるインタビュー分析においては、反復して逐語録を読み込む作業のなかで実践の運動が中立化し(感情的な要素が剥奪され)、実践の要素間の連結と、運動そのもののからみあいが浮き上がってくる(拙著『摘便とお花見』付章参照)。このようにして実践の構造が、その目には見えない背景とともに取り出される。これが質的研究におけるエイドスの相当物なのだが、この構造はあくまで個別のものの構造である。この点がフッサール現象学とは異なる(個別のものが持つ理念的構造という点ではフッサールにおける類型Typusに近い)。とはいえ手続き上、個別の実践について形相的還元と同じプロセスをたどることによって「個別のものの構造」へと到達することができるというのは、大きな成果であり、方法論上の汎用性が高い。このように私たちは形相的還元を、個別事象・状況の徹底的な反復操作を通して「背景で実践を貫く基礎構造」を取り出す方法として復権させたいと考えている。おそらく私たち以上に形相的還元の手続きを真に受けて自分でも実践してみた現象学者は他にはいないであろう。]]>
7.個別者の学としての現象学
http://kusaiinu.exblog.jp/29844708/
2018-11-12T08:58:00+09:00
2018-11-12T09:00:09+09:00
2018-11-12T08:58:57+09:00
ojamo
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「その学問の最初で唯一の対象は、哲学するものとしての私の超越論的な我(エゴ)であり…」(『デカルト的省察』第13節、邦訳64頁)と語られた現象学の対象は、行為の現象学においては必然的に「個別の当事者・実践者の経験の全領域」というように読み替えられる。その直接の帰結がある。この引用の直後に登場する方法論的な「独我論」は行為論においてはそもそも意味を持たない。フッサールは超越論的な現象学が、その方法論上、あらゆる存在の定立をかっこに入れるがゆえに他者の存在をも前提としないということを主張した。それゆえ、出発点においては超越論的な主観性は他者の存在を知らない独我論的なものにみえることになるというのだ(同)。しかしこの方法論的な独我論の前提は、行為の現象学においては意味を持たなくなる。というのはある実践者の行為はそもそも他者との関わりのなかで生じるものであり、孤独もまた他者の不在として他者の欠損を含みこむからだ(行為論の超越論的な水準における他者のステータスはまた別に考える必要があるが、さしあたりは実践者のスタイルにおいて出会われうる他者の地平と言っておける)。「独我論」はあくまで「内部観測をとったうえでの経験の全領域」という意味へと読み替えられることになる(フッサールにおける独我論と間主観的還元という首肯しがたい主張は、認識に偏ったがゆえのアポリアに見える)。たとえば、私の研究の場合は、「ある看護師の視点から見た実践の可能性の全領域」である。結局の所、現象学的な質的研究が「個別者の学」であるという主張は、フッサールにおける方法論的「独我論」の主張を「他者の経験についての現象学」へと拡張したときに、論理的な気血として導き出されるのだ。]]>
6.自分の経験への反省から、他者経験の分析へ
http://kusaiinu.exblog.jp/29843096/
2018-11-11T10:32:00+09:00
2018-11-11T10:32:58+09:00
2018-11-11T10:32:58+09:00
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フッサールは反省を技法とした。このことは、 私は、私のうちでまた私自身から意味と効力をえている世界とは別の世界に住み込み、そのなかで経験をし、思考し、価値付をし、行為をする、ということはできない。私がこの生の全体に問いかけ、直進的に世界を存在するものと捉える存在四年の遂行を全て差し控え、眼差しをもっぱらこの生そのもの、世界についての意識へと向けるとき、私は自分を思うこと(コギタチオーネス)の純粋な流れを伴った純粋な我(エゴ)として捉えることになる。(『デカルト的省察』第8節、岩波文庫49頁を一部改変) と、フッサールが考えたことに由来するのであろう。自分自身が意味を与える世界しか経験することができない、つまり自分の超越論的主観性において生成した世界しか生きることはできない、ということだろう。しかし同時にフッサールはここでアポリアを抱え込むことになった。世界の存在意味を生み出す働きとしての超越論的主観性と、世界の存在妥当から身を引き剥がす自我とはどういう関係にあるのか?というアポリアである。この問題はとりわけ『第一哲学』第2巻(1924)で、反省の無限遡行のアポリアとして考えられた。これに対し、フッサールの最晩年に助手を務めたオイゲン・フィンクは『第6デカルト的省察』のなかで、「世界を構成する自我」と「現象学を遂行する傍観者」に自我をくっきりと分割することでこのアポリアを解消しようとした。フッサールの議論を抽象的思弁的に考えようとしたフィンクは、分割によって整理しようとしたのだ(これはその後のフッサール研究者たちの研究態度のはしりである。つまり自分では事象分析をしないが、フッサールのテキストを整合的に理解しようとする。フィンク自身はその後、フッサールを離れて独自の思弁的な哲学を展開するようになるのだが)。しかしフィンクの草稿にフッサールは何度も、「両者は実際には区別されない」と書き込み、分割を拒絶しようとした。実際に自分で事象を見つめて事象を記述したフッサールは、世界を構成する自我と観察する自我との分割は便宜的なものであり、一人の現象学者は世界を構成しつつ記述すると感じていたのだろう。この点について興味深い事実がある。反省によって毎日何時間も速記を用いて事象を記述できた人は、おそらくフッサールの他には誰もいないのだ。これは単なる経験的なエピソードであるが、この問題の難しさをよく示している。フッサールと同じように現象学的還元を行うことは、他の誰にもできないのである。私自身は、フッサールは自分自身の経験を他者化して距離をとって眺める技術を持っていたのではないかと思っている。それは世阿弥の離見の見と同じように天才だけに許された特殊な視線であって他の人にまねを許すようなものではない。私たちが試みている、看護師にインタビューしてその逐語録を詳細に分析するという方法は、このアポリアに対する解決法の一つであろう。逐語録という媒介をもつことによって、他者の経験であるが自分の経験のように何度も反復して生き直し、かつ反省的に分析することができるのである(この点については『摘便とお花見』付章で詳述した)。一言だけ触れると、反省の代わりになるのが、ビデオカメラのように逐語録をくりかえし冷静に読む分析者としての現象学者である。]]>
5.超越論的還元を行為論へと読み替える
http://kusaiinu.exblog.jp/29842497/
2018-11-10T23:01:00+09:00
2018-11-10T23:21:54+09:00
2018-11-10T23:01:41+09:00
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