16.超越論的な行為の地平
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超越論的還元のなかでのふるまいには形相的還元の前と後という2段階を設定することもできる。第1段階で「調和的な流れに内在する明証にただ身を任せる」(『デカルト的省察』第13節、邦訳63頁)。第2段階で、「超越論的な経験を批判的に吟味する」(同)というのだ。おそらく第2段階は形相的な還元の働きと重なり、さまざまな志向性の本質構造を明らかにする作業であろう。
問題は第1段階である。「明証にただ身を任せる」とは何をすることなのか?フッサールは自然科学者が事象に埋没しながらトライアンドエラーを重ねて研究を進めていく身振りと重ねている。もしかするとフッサールの草稿にときどき見られるような、思考実験のようなとりとめもない記述、迷路にさまよい込むような記述がこの「ただ身を任せる」作業なのかもしれない。フッサールが「ジグザグ」と呼んだ現象学の道行きのことだろうか。
フッサールのゆらぎを、行為論に置き換えたときにこれは何を意味することになるであろうか。そもそも行為の世界は「調和的」ではないことは#15で確認した。とすると穴だらけで矛盾だらけのさまざまな文脈の錯綜に身を任せることになる。そして反省以前の錯綜した行為の網の目の生成に立ち会うということになる(しかも経験的にではなく超越論的な水準において)。現実的には行為のその瞬間にオンタイムで立ち会うことは不可能である(フッサール現象学においてもオンタイムな分析は捨てられている。あくまで事象の事後的な再生を分析している。これが「反省」の時間である)。行為の可能性の全体を網羅することはできないし、超越論的に立ち会うということの困難もまだ解決されていない(次節で考える)。
私たちがデータとして用いるインタビューは、オンタイムな分析の二次的な代替物ではないだろうか。つまり錯綜したナラティブは、錯綜した経験と実践の拡がりを転写した織物(テキスト)ではないか。私たちが研究のまず初めにする作業である何十回と逐語録を読む作業は、もしかすると「明証にただ身を任せ」る作業なのではないだろうか。そこには使うことができずに消されていく要素もたくさんある。とはいえ私たちが構造化されないインタビューという方法を採用するのは、まさにこの「ただ身を任せる」試みである。












