2018年 11月 16日
10.明証性と生
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フッサールにおいて真理が位置する場所は明証性である。自分自身に現象が現れるということに明証性の起源があるわけであり、田口茂はフッサールにおいてこれが「原自我」という層へと行き着くことを示した(田口2003)。
さて、行為論に視点を変更したときに、そして他者による現象学へと拡張したときに、明証性はどのような姿を取るのか、この問いは難問を投げかけるように思える。そもそも「明証性」という(認識論の文脈で使われる)概念がそのまま維持されるのかどうかも検討の必要があるのかもしれない。
論証にはなっていないが、私が考えている論理は以下のようなものである。
語り手の生に属する何かが(行為論的な現象学的還元のはてで)触発可能性として残余する。現象学的に還元し得ない残余としての「生」が、私たち(現象学的な質的研究の研究者)にとっての(あくまでかっこつきの)「明証性」となる予感がある。
by ojamo
| 2018-11-16 22:56