『在宅無限大 訪問看護師がみた生と死』(医学書院・ケアをひらく)
|
『在宅無限大 訪問看護師がみた生と死』という本を出しました(医学書院・ケアをひらく)。『摘便とお花見』(2013)がきっかけで訪問看護ステーションをしばらくのあいだ見学する機会をいただき、そこから出会った素敵な看護師の皆さんとの共同作業の成果です。
「死」というものが訪問看護師によって再発明されつつあるというということ、在宅医療においては死が親しい人との共同の経験であり、かつ(心臓が止まる瞬間ではなく)変化に満ちたプロセスであること、そして在宅医療は(死が近づくがゆえに逆説的に)生きることそのものを浮き上がらせる場所であり、それゆえに看護がもともと持っていた姿を際立たせる場であること(病院の看護でも在宅とまったく同じ価値がめざされていますが)、これらのことが本の(表面ではなく)背景にある通奏低音になります。
ときに不条理な運命が患者や家族に覆い被さるでしょう。このような運命を引き受けるために不可欠な存在としての看護師の姿が描けていればよいなと思います。いくつかの場面で「連続性の媒体」そして「変化の媒体」という言葉でそのような看護師の役割を描きました。
とはいえ、素晴らしい看護師さんたち一人一人の実践と語りのディテールが大事なので、内容をまとめてしまうとほとんど意味をなさなくなります。それぞれの看護師さんのなにげない言葉遣いに看護の意味が隠れていることに面白さがあります。7人の看護師のみなさんはそれぞれのユニークな実践をされており、その多様さとそこからそれでも浮かび上がる普遍のコントラストが見てとれると思います。『仙人と妄想デートする』のときにはまだ見えていなかった「医療において大事なもの」をようやく理解できたのでは、というのは反省も込めて記したいと思います。
一見するとストーリーが自然に流れるように見えて、背景では構成を作り出すために細かい編集作業を入れているので、かなり本気でドキュメンタリーフィルムを念頭に置いています(重江さんにおこられそうですが)。そのいみで、本を作る作業は論文を書く作業とはまったく異なります。
『摘便とお花見』のあとがきにポリフォニーとポリリズムという音楽の比喩で説明しましたが、看護実践そのものについてはこの比喩でいまでも考えています。ポリリズムを描き出すための作り方がフィルムに近いのかなと思います。
あるいは哲学から見たときには、事実から出発した「行為の現象学」の足場となることができたらと願っています(本文には哲学者が登場しないので、哲学の本には見えないと思いますし、わざとそうしたのですが、注をみるとどんなしかたで哲学史を引き受けているかわかるとおもいます。一番はハイデガーに対するアンチテーゼですが、スピノザ、ラカン、レヴィナスは少なくとも念頭に置いてます。本には名前を出しませんでしたがジェイムズ、マルディネとウリも)。