2018年 11月 23日
14.リズムと歴史(リズム論3)
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「しかしそれでも、我あり(エゴ・スム)がもつ絶対的明証は、我(エゴ)がもつ超越論的な生と習慣的な固有性についての、多様な自己経験にも及んでいるということが、おそらく示されることになろう。たとえそのような明証(想起や過去把持などの明証)の及ぶ範囲を限定する、或る限界内においてに過ぎないにせよ。」(『デカルト的省察』第12節、邦訳61頁)
この文が暗示することは習慣性と明証性が浸透しあっているということである。行為論の文脈に置き換えると、当事者や実践者が背景に持っているさまざまな歴史性(家族関係だけでなく、さらには過去の差別の歴史や、移民、戦争といったものまでも含みうる)にもリズムが浸透しているということである。
認識においては内的時間意識が基礎にあって歴史の沈殿に浸透するであろうが、行為論においては一方向の基礎づけではなく、相互に基礎づけることになるだろう。リズムに歴史性が浸透し、歴史性にリズムが浸透するという形になる。
by ojamo
| 2018-11-23 22:52