2008年 03月 23日
レヴィナス研究の要旨
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明日の書評会の資料として書いた、前著Levinas phenomenologueおよび近刊のHyperbole - Pour une psychopathologie lévinassienneのまとめです。
Lévinas phénoménologue (『現象学者レヴィナス』), J. Millon, 2002
レヴィナスの思想は倫理学ではないという主張が出発点です。根拠は二つでした。
1.レヴィナスの全てのテキストは、現象学として分析できる。
・レヴィナスは1930年代から80年代にいたるまで、フッサールに関する論考を執筆していた。とりわけ後期の議論に、フッサール研究としても新しい知見がある。
・(レヴィナス自身は、純粋哲学の論考から区別していた)ユダヤ教関連の論考も「歴史の現象学」として読める。
2.倫理以外の局面でも、独創性のある思想を呈示している。
・とくに世界論、歴史論に独自の議論がある。
①世界論については、後期メルロ=ポンティを先取りする質の現象学であり、美的経験の現象学と後期フッサールの受動的総合を深化する議論を含む。
②歴史論は、終末論概念を拡大した意味伝承の解釈学である。
この二つの方針によって、レヴィナスの思想を倫理学としてではなく、体系的な哲学として呈示することが可能になります。
現象学として読む場合の、最も大事な帰結は、レヴィナスの思想の結節点の位置にある「主観性」は、変化のない安定した構造としてではなく、「傷つく可能性・壊れる可能性を組み込んだ構造」(意味の喪失のなかから意味を回復する構造)であるという発見でした。本書では、カントの崇高論を手がかりとしてこの仕組みを論じています(第2部第3章)。カントの場合は、安全な位置に立った上で道徳意識として自らの理性を発見する崇高の経験ですが、レヴィナスの主観性は、実際にさまざまな苦痛に脅かされているなかでの主体の発生・再構成の仕組みです。ここで精神病理学との構造的な連関が生じます。この議論は、心的外傷とそこからの治癒の可能性を組み込んでいます。ただし、本書での考察では、心的外傷ではなくブランケンブルクの症例アンネ・ラウを事例として用いました。
このように考えると、世界論の文脈で登場する「ある」の問題(意味喪失の問題)と、迫害の歴史とショアーのあとでもなお「意味」の可能性を見いだそうとする歴史論とが、他者論と密接にリンクして大きな構造を作っていることがわかります。
Lévinas phénoménologueの大きな欠点は、肝心のフッサールに対する理解が不十分だったこと、『全体性と無限』をうまく取り込めなかったこと、そしてとりわけ現象学という側面を過度に強調したために、彼の「倫理」的な言説をユダヤ教という一文化に特殊なイデオロギーだと解してしまったことだと考えています。そのために倫理的な側面は、二次的現象であるとして切り落としてしまいました。その点を補うのが、次の論考です。
Hyperbole - Pour une psychopathologie lévinassienne (『誇張法 レヴィナス的な精神病理学のために』), APPh, 2008
本書では、レヴィナスの倫理的な言説を、現象学のなかに取り込むことになりました。彼の倫理とは、精神病理学を可能にする理論的な枠組みのことである、というのが基軸となる主張です。前著で見いだされた、「壊れものとしての主体」の機構を示す概念が、「倫理」と彼が呼ぶものであることを示しました。これにより、倫理という装置が現象学と精神病理学を架橋することになります。
そもそも「無限責任」「全宇宙への責任」「身代わり」といった事象は、統合失調症の妄想においてのみ現実化するような極限値です。
いついかなるときにも相手が死んでしまうかも知れないこと、つまり私や他者の死あるいは病によって対人関係が壊れてしまう可能性が、あらゆる瞬間の私たちの人間関係にも(仮想的に)伏在しているということ、それによって生まれる情動性が、彼が「倫理」と呼ぶ仕組みであることが示されます(第4章)。
それとともに、死者とでも関係を結び直すことができること、死や外傷体験によって一端、壊れてしまった、あるいは失われてしまった対人関係の枠組みを再構築する可能性を(仮想的にでも)確保することが「意味」と呼ばれるものです(第5章)。
このように、二つの仮想的な極限値を日常的な人間関係は常にはらんでいる、という直観が、「誇張法」と呼ばれる探究を促しています。これは、耐え難い外傷であるという意味で経験不可能な極限値を、経験の地平として想定することで見えてくる、人間のあり方です。
このような「無意味と意味の弁証法」とでも呼べる関係は、レヴィナスのテキストのなかで、解決困難な矛盾や緊張として記されています。たとえば、『存在するとは別の仕方で』の最後では「ある」(無意味)と他者は同一視されます。無限(神)と「ある」が同一視される箇所もあります。アグノン論では死者と生者の区別が失われます。抗して、たとえば心的外傷のような事象を純粋に現象学の概念で分析することが可能になり、現象学的な精神病理学の可能性が開かれることになります(第6章)。
このような誇張法の前提として、彼の他者論をもう一度、現象学のなかに位置づける必要があります。フッサールの感情移入の構造とも、メルロ=ポンティ/ワロンの共鳴動作の構造とも異なる視線触発と本書で呼んだ構造を、レヴィナスが取り出していたことが明らかになります(第1章)。そしてこの構造の理解がないと、自閉症という現象を正確に理解することができません。
そして『全体性と無限』のなかの「住居」という奇妙な概念が、「壊れものとしての主体」のポジティブな裏面を構成し、しかもこれがレヴィナスの体系全体の要の位置、つまり感性論と行為論、そして他者論の結節点に来ることを示すことになります(第2章)。住居とは、安心感と安全を保証する対人関係のなかで成立する主観性構造であり、これが欠けると(意味の確保の可能性がなくなるため)無意味と意味の弁証法は成立しません。これはウィニコットが健康な発達の核に据えた、移行領域(中間領域)と呼ばれる構造です。
そして配置の上で住居と対立する位置にある「ある」の議論は、外傷体験となりうる現実との関係の一様態、言いかえると「症状」論として読み替えられることになります(第3章)。厳密に分析すると「ある」は無意味そのものではなく、現実(真の無意味)を回避するための、最低限の装置(=症状)の一般構造と考えられることになります。
Lévinas phénoménologue (『現象学者レヴィナス』), J. Millon, 2002
レヴィナスの思想は倫理学ではないという主張が出発点です。根拠は二つでした。
1.レヴィナスの全てのテキストは、現象学として分析できる。
・レヴィナスは1930年代から80年代にいたるまで、フッサールに関する論考を執筆していた。とりわけ後期の議論に、フッサール研究としても新しい知見がある。
・(レヴィナス自身は、純粋哲学の論考から区別していた)ユダヤ教関連の論考も「歴史の現象学」として読める。
2.倫理以外の局面でも、独創性のある思想を呈示している。
・とくに世界論、歴史論に独自の議論がある。
①世界論については、後期メルロ=ポンティを先取りする質の現象学であり、美的経験の現象学と後期フッサールの受動的総合を深化する議論を含む。
②歴史論は、終末論概念を拡大した意味伝承の解釈学である。
この二つの方針によって、レヴィナスの思想を倫理学としてではなく、体系的な哲学として呈示することが可能になります。
現象学として読む場合の、最も大事な帰結は、レヴィナスの思想の結節点の位置にある「主観性」は、変化のない安定した構造としてではなく、「傷つく可能性・壊れる可能性を組み込んだ構造」(意味の喪失のなかから意味を回復する構造)であるという発見でした。本書では、カントの崇高論を手がかりとしてこの仕組みを論じています(第2部第3章)。カントの場合は、安全な位置に立った上で道徳意識として自らの理性を発見する崇高の経験ですが、レヴィナスの主観性は、実際にさまざまな苦痛に脅かされているなかでの主体の発生・再構成の仕組みです。ここで精神病理学との構造的な連関が生じます。この議論は、心的外傷とそこからの治癒の可能性を組み込んでいます。ただし、本書での考察では、心的外傷ではなくブランケンブルクの症例アンネ・ラウを事例として用いました。
このように考えると、世界論の文脈で登場する「ある」の問題(意味喪失の問題)と、迫害の歴史とショアーのあとでもなお「意味」の可能性を見いだそうとする歴史論とが、他者論と密接にリンクして大きな構造を作っていることがわかります。
Lévinas phénoménologueの大きな欠点は、肝心のフッサールに対する理解が不十分だったこと、『全体性と無限』をうまく取り込めなかったこと、そしてとりわけ現象学という側面を過度に強調したために、彼の「倫理」的な言説をユダヤ教という一文化に特殊なイデオロギーだと解してしまったことだと考えています。そのために倫理的な側面は、二次的現象であるとして切り落としてしまいました。その点を補うのが、次の論考です。
Hyperbole - Pour une psychopathologie lévinassienne (『誇張法 レヴィナス的な精神病理学のために』), APPh, 2008
本書では、レヴィナスの倫理的な言説を、現象学のなかに取り込むことになりました。彼の倫理とは、精神病理学を可能にする理論的な枠組みのことである、というのが基軸となる主張です。前著で見いだされた、「壊れものとしての主体」の機構を示す概念が、「倫理」と彼が呼ぶものであることを示しました。これにより、倫理という装置が現象学と精神病理学を架橋することになります。
そもそも「無限責任」「全宇宙への責任」「身代わり」といった事象は、統合失調症の妄想においてのみ現実化するような極限値です。
いついかなるときにも相手が死んでしまうかも知れないこと、つまり私や他者の死あるいは病によって対人関係が壊れてしまう可能性が、あらゆる瞬間の私たちの人間関係にも(仮想的に)伏在しているということ、それによって生まれる情動性が、彼が「倫理」と呼ぶ仕組みであることが示されます(第4章)。
それとともに、死者とでも関係を結び直すことができること、死や外傷体験によって一端、壊れてしまった、あるいは失われてしまった対人関係の枠組みを再構築する可能性を(仮想的にでも)確保することが「意味」と呼ばれるものです(第5章)。
このように、二つの仮想的な極限値を日常的な人間関係は常にはらんでいる、という直観が、「誇張法」と呼ばれる探究を促しています。これは、耐え難い外傷であるという意味で経験不可能な極限値を、経験の地平として想定することで見えてくる、人間のあり方です。
このような「無意味と意味の弁証法」とでも呼べる関係は、レヴィナスのテキストのなかで、解決困難な矛盾や緊張として記されています。たとえば、『存在するとは別の仕方で』の最後では「ある」(無意味)と他者は同一視されます。無限(神)と「ある」が同一視される箇所もあります。アグノン論では死者と生者の区別が失われます。抗して、たとえば心的外傷のような事象を純粋に現象学の概念で分析することが可能になり、現象学的な精神病理学の可能性が開かれることになります(第6章)。
このような誇張法の前提として、彼の他者論をもう一度、現象学のなかに位置づける必要があります。フッサールの感情移入の構造とも、メルロ=ポンティ/ワロンの共鳴動作の構造とも異なる視線触発と本書で呼んだ構造を、レヴィナスが取り出していたことが明らかになります(第1章)。そしてこの構造の理解がないと、自閉症という現象を正確に理解することができません。
そして『全体性と無限』のなかの「住居」という奇妙な概念が、「壊れものとしての主体」のポジティブな裏面を構成し、しかもこれがレヴィナスの体系全体の要の位置、つまり感性論と行為論、そして他者論の結節点に来ることを示すことになります(第2章)。住居とは、安心感と安全を保証する対人関係のなかで成立する主観性構造であり、これが欠けると(意味の確保の可能性がなくなるため)無意味と意味の弁証法は成立しません。これはウィニコットが健康な発達の核に据えた、移行領域(中間領域)と呼ばれる構造です。
そして配置の上で住居と対立する位置にある「ある」の議論は、外傷体験となりうる現実との関係の一様態、言いかえると「症状」論として読み替えられることになります(第3章)。厳密に分析すると「ある」は無意味そのものではなく、現実(真の無意味)を回避するための、最低限の装置(=症状)の一般構造と考えられることになります。
by ojamo
| 2008-03-23 15:03