2013年 10月 19日
本の作り方
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ある雑誌のために書きかけたけれどもボツにした断片を、ここに載せる。全然別の原稿を雑誌にはお送りした。
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さてあらためて振り返ってみて、「本づくり」としても〈語りの現象学〉には面白さがあることに気付いてきた。一つは『摘便』の結論に書いたとおり、看護師さんの声と、それを分析する地の文と、引用された哲学者の声からなるポリフォニーを作れるということだ。私自身バッハやアイヴズが好きであり、あるいはブレイクやエリオットの引用が織り込まれた1980年代の大江健三郎の作品が好きなので、自分でもそういう作品が作ることができて本望である。
もう一つは普通の本と違って、「始め」と「終わり」がはっきりとしないことだ。普通、本を書くときには、何か「言いたいこと」がはじめにあって構成を組んでいくであろう(その意味で執筆の「出発点」は「終わり=目的(テロス)」でもある)。ところが、〈語りの現象学〉ではそのような「出発点」はつねにずらされる。冒頭に上げたインタビューも当初の予想とはぜんぜん違うところに向かっていった。『摘便とお花見』の場合も、死が当初の大きなテーマだったのでがん看護や訪問看護が選ばれているのだが、ところが実際にお話いただいた内容は、「死」にとどまらない広範で複雑なものだった。死を軸としつつも、行為論や共同体論を看護師は語り出したのである。
そうなると当然、本がどのように終結するのか、最後までわからない。校正を繰り返しているさなかにも新たに見えてくる事象があり、最後の最後までどこに向かうのか自分でもわからなかった。とはいえ出来上がった本には、明確なまとまりはある。執筆とは、錯綜した語りのなかから自発的に生成する「まとまり」を探しだすプロセスであるといえる。私が書きたいことを書くことで本を終わらすのではなく、語りの背後に控える看護実践の運動が、自然と布置を作ってまとまっていくのだ。
もう一つ、終わりが存在しない方法上の理由がある。それは、個別の経験を大事にしようとするならば、分析を細かくしていっても決して抽象度を上げすぎてはいけない、という事情に由来する。抽象度を上げるならば、何か概念を作ってモデルめいたものを作って「完成」させることもできるであろう。しかしそれをしてしまうと、看護師さんの経験と語りを裏切ってしまう危険がある。なのであと一歩まだ何か理論的なことを言えそうだ、というところで踏みとどまらないといけない。まとまりはあるのだが、それは必ずしも抽象概念に落ち着くということではないのだ。哲学の本でもあるのだから、これは奇妙な要請だ。抽象概念によって完成してはいけないのである。終わりが見える手前で、生成のプロセスを見させることで成立するような、それゆえに来るべき看護実践と、そして来るべき読者へと開かれ続けるような、そういう書物を作ることが理想になる。
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さてあらためて振り返ってみて、「本づくり」としても〈語りの現象学〉には面白さがあることに気付いてきた。一つは『摘便』の結論に書いたとおり、看護師さんの声と、それを分析する地の文と、引用された哲学者の声からなるポリフォニーを作れるということだ。私自身バッハやアイヴズが好きであり、あるいはブレイクやエリオットの引用が織り込まれた1980年代の大江健三郎の作品が好きなので、自分でもそういう作品が作ることができて本望である。
もう一つは普通の本と違って、「始め」と「終わり」がはっきりとしないことだ。普通、本を書くときには、何か「言いたいこと」がはじめにあって構成を組んでいくであろう(その意味で執筆の「出発点」は「終わり=目的(テロス)」でもある)。ところが、〈語りの現象学〉ではそのような「出発点」はつねにずらされる。冒頭に上げたインタビューも当初の予想とはぜんぜん違うところに向かっていった。『摘便とお花見』の場合も、死が当初の大きなテーマだったのでがん看護や訪問看護が選ばれているのだが、ところが実際にお話いただいた内容は、「死」にとどまらない広範で複雑なものだった。死を軸としつつも、行為論や共同体論を看護師は語り出したのである。
そうなると当然、本がどのように終結するのか、最後までわからない。校正を繰り返しているさなかにも新たに見えてくる事象があり、最後の最後までどこに向かうのか自分でもわからなかった。とはいえ出来上がった本には、明確なまとまりはある。執筆とは、錯綜した語りのなかから自発的に生成する「まとまり」を探しだすプロセスであるといえる。私が書きたいことを書くことで本を終わらすのではなく、語りの背後に控える看護実践の運動が、自然と布置を作ってまとまっていくのだ。
もう一つ、終わりが存在しない方法上の理由がある。それは、個別の経験を大事にしようとするならば、分析を細かくしていっても決して抽象度を上げすぎてはいけない、という事情に由来する。抽象度を上げるならば、何か概念を作ってモデルめいたものを作って「完成」させることもできるであろう。しかしそれをしてしまうと、看護師さんの経験と語りを裏切ってしまう危険がある。なのであと一歩まだ何か理論的なことを言えそうだ、というところで踏みとどまらないといけない。まとまりはあるのだが、それは必ずしも抽象概念に落ち着くということではないのだ。哲学の本でもあるのだから、これは奇妙な要請だ。抽象概念によって完成してはいけないのである。終わりが見える手前で、生成のプロセスを見させることで成立するような、それゆえに来るべき看護実践と、そして来るべき読者へと開かれ続けるような、そういう書物を作ることが理想になる。
by ojamo
| 2013-10-19 11:08