2013年 09月 20日
稲垣諭
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稲垣諭(2012)、『リハビリテーションの哲学あるいは哲学のリハビリテーション』
出版時にご恵贈いただいていたのだが、拝読するのが遅くなってしまった(ごめんなさい)。しかも、『摘便とお花見』出す前に読んでおくべきだったと後悔している。僕のために書かれたような本であり、参照すべきであった。
稲垣さんが考える現象学のイメージと、僕のイメージはほとんど同じであり、しかも彼のほうが厳密に既存の議論(フッサール研究、科学認識論、神経科学)との突き合わせを行っている。さらにもともとフッサール研究をされていたからか、容赦なく根本的な批判を投げかけている。僕はここまで書く勇気がない。
いろいろと面白い文章があるのだが、
など、なるほど、と思う。
稲垣さんは片麻痺の理学療法の現場に長年立ち会い、そこでの参与観察の経験をもとに本書を書かれている。もしも僕との違いがあるとしたら、稲垣さんのほうが「治療への貢献」へと踏み込んで現象学を行おうとしていること、そしてもちろんリハビリと看護という現場の違いからくる違いである(詳述はここではしないが、この点はかなり大きく、具体的な方法論とアウトプットは一見すると全く異なるものになる。どちらかというと僕の場合は自閉症研究のほうが今の稲垣さんのお仕事に近かった)。
いずれにしても僕にとってはとりわけ現象学の方法論に関する議論で大きな示唆を頂けたし、首肯できる内容だった。
この記事を書きながら、吉川さんの
吉川孝、『フッサールの倫理学 生き方の探求』
を最近再読したことを思い出した。『現代思想』8月号の「看護のチカラ」でも引用したのだが、以前看護の分野で研究を始める読んだときにはわからなかった射程が、ようやくわかってきた。フッサールもまだいろいろ参考になると思う。
出版時にご恵贈いただいていたのだが、拝読するのが遅くなってしまった(ごめんなさい)。しかも、『摘便とお花見』出す前に読んでおくべきだったと後悔している。僕のために書かれたような本であり、参照すべきであった。
稲垣さんが考える現象学のイメージと、僕のイメージはほとんど同じであり、しかも彼のほうが厳密に既存の議論(フッサール研究、科学認識論、神経科学)との突き合わせを行っている。さらにもともとフッサール研究をされていたからか、容赦なく根本的な批判を投げかけている。僕はここまで書く勇気がない。
いろいろと面白い文章があるのだが、
現象学とは「自覚的意識とは独立に、気づいたときにはすでに成立している(もしくは解体・変容している)世界とのかかわり方の解明の技法」である。(p. 102)
現象学的探求は、たとえ健常者であっても信念とは概して、健常であることに寄る失認の結果とみなし、その限りで私たちは一体どのような病理に陥っているのか、その構造と時室を問うのである。(p.113)
など、なるほど、と思う。
稲垣さんは片麻痺の理学療法の現場に長年立ち会い、そこでの参与観察の経験をもとに本書を書かれている。もしも僕との違いがあるとしたら、稲垣さんのほうが「治療への貢献」へと踏み込んで現象学を行おうとしていること、そしてもちろんリハビリと看護という現場の違いからくる違いである(詳述はここではしないが、この点はかなり大きく、具体的な方法論とアウトプットは一見すると全く異なるものになる。どちらかというと僕の場合は自閉症研究のほうが今の稲垣さんのお仕事に近かった)。
いずれにしても僕にとってはとりわけ現象学の方法論に関する議論で大きな示唆を頂けたし、首肯できる内容だった。
この記事を書きながら、吉川さんの
吉川孝、『フッサールの倫理学 生き方の探求』
を最近再読したことを思い出した。『現代思想』8月号の「看護のチカラ」でも引用したのだが、以前看護の分野で研究を始める読んだときにはわからなかった射程が、ようやくわかってきた。フッサールもまだいろいろ参考になると思う。
by ojamo
| 2013-09-20 22:56